鬼頭秀一(元東大環境倫理学)取材レポート

[ 取材レポート ]

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倫理学という学問を現代社会に当てはめたのが応用倫理学と言われるものです。応用倫理学にも色々なものがあって、その中のひとつに環境倫理学というのがあります。環境問題は科学者だけの一方的な意見だけで対処することができない面もあります。その分大変デリケートな問題でもあります。それを倫理学の視点から説いているのがこの学問になります。
この度東京大学の環境倫理学者、鬼頭秀一先生に環境問題をうかがうことができました。


−−環境問題は自然の問題を超え、今や国際情勢を握るための南北問題にまで発展

−−先生は環境倫理学がご専門ですが、あまりその学問自体一般の人には馴染みがありません。環境倫理学とはどういう学問なのでしょうか?
鬼頭(以下K):人が自然環境に対してどういう振る舞いをするのかをみる学問です。環境保護や持続可能な社会のなかで人がどう生きていくかを考えたりします。例えば開発していくなかで環境は壊されて行きます。また災害対策として、防災のための構造物も作られていくと思うのですが、それを作ることで環境も壊されて行きます。そのように人間の手が入ることによって壊されていく環境のなかで、どのようにして人間が生きていくかを考える学問であります。
 元々環境倫理学という学問が生まれた発端は米国でした。特に1970年代米国では環境問題が盛んで、哲学や倫理の範疇で環境を考えて行こうという動きがありました。その時代はニクソン政権の時代で科学的な考えが中心を成していました。例えば冷戦の時代であり、宇宙開発を筆頭に開発というのをあちこちでやっていき、ものすごく批判も浴びました。しかし保険や医療などを重視する政策に転換していくなかで、米国は多民族多宗教の国ですから考え方も色々とあり倫理的な側面から医療なども語るようになりました。その結果最初に医療倫理学というのが出てきました。同時に今まで人間中心だったのを反省し、生態系や自然にも目を向けていこうという動きがあり、それらを哲学や倫理学の視点から見るようになったのが始まりです。

−−70年代はベトナム戦争によって米国の国力が衰退していき、ローマクラブによって「ゼロ成長」も掲げられ、そのなかで社会の目をベトナム戦争から目をそらすために自然環境の問題をはじめ反捕鯨の問題が出てきたと言われていますよね?
K:70年代、ベトナム戦争の枯れ葉剤によって大規模な生態系の破壊がおこなわれました。それは米国の科学者のなかでも批判の的になりました。ベトナム戦争が反捕鯨に目を向けさせたというのもあるかも知れませんよね。

−−しかし近年、世界を取り巻く状況、つまり世界情勢のなかに環境問題というのも加えられるようになっていますよね?
K:60年代、70年代というのは東西冷戦の時代であり、米国やソ連などの先進国だけの話しで済んでいました。しかし89年に東西の緊張が緩和され、安全保障などの枠組みを中心に世界が大きく変わっていきました。変わった世界のイニシアチブをどう取るかのひとつとして環境問題というのが出てきました。89年には米国の大統領選挙でレーガンの副大統領であったブッシュが立候補しましたが、彼が初めてその公約のなかに環境問題を入れました。それまでの共和党政権は環境問題には冷ややかなところがありまして、公約に掲げるというのはあり得ないことでした。
 1992年のリオサミットの時になると、それまでは先進国だけで物事進められていましたが、生態系や遺伝子などが関わってくると途上国を交えた南北問題に変化していき生物多様性条約とかが出来上がっていきました。このように60年代、70年代の構造と80年代、90年代との構造として大きく変わってきているのです。

−−東西冷戦の時代から、生物多様性のことを見てもわかるように完全に南北問題に移行していったということですね?
K:これらは日本に暮らしているとなかなかわからないことだと思います。日本人からすれば環境問題は自然を守る問題だと思っていたでしょうが、COP10あたりから環境問題には熱帯雨林などにある菌類の遺伝子のことが含まれるようになり、それはイコール南北問題になっていきましたのです、みなさん「まさか」と思ったでしょうね。
 メディアも環境問題など科学のことよりも、政治や経済の方を重視していますよね?温暖化も経済が絡むとメディアは元気になります。だから生物多様性の話しだって、経済が絡まないと一般の人にとっては無関心のままでいて、私はこのままでいいのかなと思っています。

−−ところで私のお客様のなかにはダイバーが多くいます。シーシェパードほどではないにせよイルカは知能の高い動物だと認識していて、イルカ漁は「かわいそう」と言う人もいます。そう言われると難しい内容でしたがピーター・シンガーの「動物解放論」にも興味を抱くようになりました。しかし意思の疎通のできない動物に対して、なぜ人はそこまで感傷的になるのでしょうか?
K:シンガーの「動物解放論」は、人間だけが特別という見方はやめましょうということで、人間にとっても動物にとっても利益、幸せは増えた方が良い社会になると言い、反面嫌なことは減った方が良い社会になるとも言っています。良いことは増えた方が良いし、苦しいことは減った方が良いという最大多数が最大幸福という功利主義的な考えがシンガーの「動物解放論」の中にはあります。
 動物の心なんていうのは読めないですよね?また人間と動物とでは幸福感なんていうものは違いますよね?人間一人一人でも違いますよね?幸福の度合いというものは計れないです。幸福ははかれないのなら、苦しいことは少ない方がいいでしょうし、痛いとか苦しい、命を奪うと言った行為も減らした方が良いと言うのです。


捕鯨やイルカ漁の正統性を求めるのなら現地の人ならではのアイデンティティを打ち出すべき

−−その知能が高いとされているクジラやイルカについて伺います。捕鯨やイルカ漁から得られた肉を食べることは今現在日本では食文化として廃れています。しかし廃れていながらも日本の食文化だと主張する人もいますが・・・・・・。
K:あれは日本の食文化ではありませんよ。例えば捕鯨やイルカ漁をして、その肉を食べるというは太地の食文化です。食文化というのは地域地域の問題で、それで日本全体をまとめあげることではありません。クジラを食べない地域もたくさんあります。戦後だって、たまたま日本では食糧難という時期があったのでクジラの肉を食べていたというだけですよ。

−−なら太地の人たちは、自分たちの食文化としてイルカ漁を守るべきでしょうか?
K:重要なら守るべきでしょうね。それがなくなることによって太地の人たちのアイデンティティがなくなってしまうのなら守るべきでしょうね。
 もしそれがなくなれば太地の人も東京の人と変わらなくなってしまいますよね。故郷にいて故郷に誇りを持ち、そういう文化があるというのが、地元の人間として豊かな暮らしだと考えると、なくすのはよくないでしょうね。

−−私はこんな質問を受けたことがあります。「廃れている鯨肉を食べることが食文化なら、人肉を食べる民族に対してもそれを食文化として認めてあげるべきでしょうか?」という質問です。
K:極端なことを言うと認めるべきでしょうが、彼らは日常食のために食べているわけではないですよね。人肉と食べるカニバリズムには宗教的な意味合いがあります。戦闘相手の人肉を食べることが強さの象徴ととらえる民族もあります。宗教的な意味合いがありますから、決して毎日食べているわけでもないので、食文化という括りに入れてしまうと違うかなと思いますがね。だから彼らもやたらと日常的に食べているわけではないです。
 狩猟民族にしても、毎日狩猟して食べているかと言うとそうでもなく、日常的に食べているのは女性が採取してきたものが多くて、動物の肉を獲って食べることは政治的、宗教的な意味合いや男の強さというのも表しています。
 実は栄養学的にも動物タンパク質というのはさほど重要ではないです。人間は動物性タンパク質を摂取しなくても生きていけるのです。それでも狩猟するということの裏には、狩猟という行為自体が政治的、宗教的なものに結びついているからです。そこを栄養学的な見地だけで狩猟を禁止させて小麦とか別の食料を与えればいいという考え方は、狩猟が政治的、宗教的な意味合いのもとにその民族の文化が成り立っているのにおかしいなことですよね?そのような理由があるのに先進国や西欧社会の人たちは制限したり、禁止したり保護をしたりと彼らの方が勘違いしています。

−−太地の捕鯨、イルカ漁も守るべきだとおっしゃっていましたが・・・・・・。
K:太地で文化として続いていればですよ。「それは本当に続いているの?」ってことですよ。でもそこはなかなか難しい論点だと思います。太地の捕鯨は文化的には明治初期には絶えています。絶えた後、東洋捕鯨が下関に出来て、それが太地にも来て、改めて捕鯨を始めたわけですが、それは太地の「文化なのか?」と言うと、その答えは難しいと思います。「文化である」とも言えますし、「文化でない」とも言えます。「文化でない」とする人の意見として、一度産業として絶えているわけですし、技術的にもノルウェイ式の捕獲技術を使っているわけですから、それはそれで「太地の文化ではない」と言っています。でも東洋捕鯨が来て、クジラを獲ることで太地の産業など活性され、地域社会がクジラを中心に改めて成り立ってきたことも事実です。反論する人はそのように外部の会社が来て、テコ入れして再生させたことに対しても、「文化ではないでしょ?」という人もいますが、私はそれも文化であると思っています。
 同じことはマタギの人たちにも言えますよね?かつての銃と違って今ではライフルを使っています。でも彼らは以前と変わらず山の神やクマなどの動物の命に対して感謝の気持ちというのを持ち、マタギとしてのアイデンティティを見出しています。だからライフルやノルウェイ式など、初期とは違った技術が入ってきていますが、精神とか骨格というものを残しておくのが文化というものであって、それまでも取られてしまうと、「自分は誰?」ってことになってしまいますよね。


ローカル(地域社会)でなくナショナル(国家)に自分の居場所を見出す現代日本人の危険性

−−「自分は誰?」ということで自分でも日本人とは何だろうと「日本人論」の本を読んだりしまして・・・・・・。
K:だから今の日本で危険なのは、誰もがすぐ「日本」っていうものに認識持とうとしていることです。太地にしても、太地の人たちがその地域で生きていくのに、(日本ではなく)太地の街のことを考え、その中にクジラというものの存在が重要なら、捕鯨というものの意味が成してきますよね?ですから捕鯨は日本の問題ではなく、太地の問題になるのです。 
 今の人は地域から切り離されているわけですから、みんな地域ではなくすぐに「日本」というところに居場所を求めていて行き、その結果オリンピックとかサッカーのワールドカップの日本代表を応援して「日本人である」という存在意識を持つのですよ。

−−オリンピックやサッカーが政治利用されるようになるのでしょうかね?
K:若い人たちが一生懸命やってもなかなか成果上げられない時代ですからね。それには「日本」というのは最も良い自分を見出す居場所になっていますし、それに韓国や中国を叩いていれば、「自分は日本人だ」という意識になりますよね。でもそれは虚構だと思いますし、私の環境倫理の考えとしては「国(ナショナル)」よりも「地域(ローカル)」中心なので、「地域」のところで自分たちのアイデンティティを見出すことが大切だと思っています。
 日本という中で「豊かな生活」を見ると虚構でしかないと思うのですが、反面地域という中で「豊かな生活」を見ると、地域という身近にある自然のことがあり、場合によってはそれを利用してその先には地域の人の幸せがある。イルカ漁であっても何であっても、ちゃんと位置づけられるわけです。

−−ところで環境保護団体はシュプレヒコールをあげ、自然環境を「守る」ことばかり優先して、反対される側の気持ちを考えていないと思います。
K:環境保護団体もWWFジャパンなど国内と海外の本部とでは考え方が違っています。海外の方は狂信的な人が多いでしょうが、国内はそうでもなく冷静に考えています。例えばWWFジャパンの自然保護室長を努められていた佐藤哲氏(総合地球環境学研究所)は「持続可能な〜」を前提にしつつ、捕鯨も肯定したら本部から非難囂々でした。
 クジラを、少なくてもWWFでもグリーンピースでも「カワイイから守る」という考えで動いている人はいません。彼らもその国の文化や経済を科学的な見地からちゃんと見ています。逆にポール・ワトソンみたいな人はWWFやグリーンピースからすると「困ったやつだな」と邪魔でしょうね。
 リオサミットあたりから、環境問題が国際化していき先進国の人たちも、先住民のことや彼らの文化のことも考えるようになっていきました。今までの西欧だけの一方的な考え、感覚だけではダメだというのがわかってきました。ところがそういうのが嫌いな人もいます。その典型がポール・ワトソンでしょう。今の時代からするとポール・ワトソンなんかは自然保護でも動物愛護でもないですよ。しかし最近ポール・ワトソンは元気ですよね?その原因が日本だと思います。「軟弱なこと言ってちゃダメなんだ!」と竹島に韓国の大統領が上陸したのと同じことを日本政府は南氷洋で強引に調査捕鯨をやっているのですよ。しかもその調査捕鯨の枠も倍ぐらいにあげてですよ。今日本国内でも鯨肉は余っているのにナガスクジラまで捕ると言いだしました。南氷洋は豪州にとっては自分の庭ですよ。

−−WWFにしても暴力ではなく対話重視ですからね。
K:日本に対してそんな対話なんていう軟弱なこと言っていたらダメなんだ、と盛り上がってきたわけですよね。それでポール・ワトソンなんかが英雄になってきちゃったわけです。

−−私はよく環境問題で最も重要なのは、マイケル・サンデルが言うように毎日考えていくことで、今すぐ「結論」という終着点を求めるべきではないと思っています。結果重視ではなく、見えないかも知れませんが終着点に行くまでの道程を見る方が重要かなと思います。
K:それは重要ですよね。

−−しかしそういう考え方に対して、「今の地球環境にはそんな悠長なこと言っていられない」と言う人もいます。
K:そう言う人がシーシェパードとか安倍首相田母神氏を支持するのですよ(笑)。「やっぱ強気に出ないとこれからの日本はダメだよね」と。今日本はそういう時代に入ってしまったのです。中道の人はああいう人をバカにしていたわけですが、選挙でも右寄りの人があれだけ票をとるようになり、無視できない存在になってきました。
 だから解決ということを本当に考えると対話をしていかないとダメだと思います。そうでないと太地の人たちにも解決にはならないです。水産庁と環境保護団体の関係なんていうのは安倍首相と北朝鮮と同じです。お互い相手を批判している。どういうことかというと今鯨肉は余っていますし、そのなかでお金かけて調査捕鯨しているというのは水産庁の人の権益を守るための公共事業になってしまっています。産業としても回収できないので成り立っていないです。調査捕鯨を沿岸まで拡大したことによって、沿岸捕鯨の会社が採算とれなくなってきました。なぜならクジラの肉が国内でだぶついているのですから採算とれないわけないです。もっと小さいマーケットで、クジラを食べたい地域だけでやっていれば捕鯨の会社も生き残っていたでしょうし、それでよかったのですよ。
 調査捕鯨で言っている枠を全部獲ってしまったら本当に大変ですよ。そこを環境保護団体とかが妨害してくれているから獲れていないわけですよね?本当は「これだけ獲れるのに環境保護団体に妨害されているから獲れない」と。もしそれがなかったら枠を決めても獲れない。逆にいっぱい獲ったらだぶついてどうするかという社会問題になります。
 獲れない理由として環境保護団体が頑張ってくれているし、それに対して「アイツが敵だ」と関心をもっていけば自分たちの利権が主張される、ホント水産庁にとっては有り難い存在ですよね?

−−でもクジラは人間が消費する以上に多くの小魚を食べてしまいます。クジラを獲ることによって他の水産資源が守られるといえませんか?
K:それはないですよ。クジラ自体も減っていると思いますよ。水産資源の数の問題というのはクジラだけで決まるような単純なものではないですよ。獲りすぎたから減っているとかだけの問題でもないですよ。
 水産資源の世界は実際獲りすぎているかどうかは海のなかのことなのでわからないことが多いです。それに資源の管理など、どれだけ増えているかを調べるのはうまくいってないと思います。水産学系の学者と生態学系の学者とで考え方が分かれているので議論も出来ていないですよね。だから魚が減っているから、クジラを獲って良い平気で言うのは生態学的には学者としてどうなのか・・・・・・。

−−今後の地球環境の問題はどうなっていきますか?
K:国際的な合意は利害関係もあるし、日本の外交姿勢をみても難しい問題ですよね。もちろん環境問題は国際的に取り組むとかルールを作ることも大切ですが、そう言った枠組みだけではなくローカルなところで、近代化されていく環境のなかでただ単に安全に暮らせればいい、経済的に裕福ならいいというだけではなく、自然環境を保全しながら自分たちにとって誇り有る地域を作っていくかを真剣に考えないといけないですし、逆にそれを真剣に考えないと「日本」という虚構にはまってしまいます。はまる前に身近な地域や自然を考え、目を向けて、自分が何をできるのかを考えていかないといけないと思う。今はナショナリズムが強くなっています。日本や中国、韓国も同じで、国自体が「やんちゃ」になっているので、お互いにどっちが良いとか悪いというのではなく、歩み寄る環境ではないです。そのなかで環境問題を考えると妥当ではないです。政治家にそれを求めるのはもはや絶望的です。虚構の上でのナショナリズムではなく、ローカルな地域に密着し、地域を考えている人たちが国際的に交流しながら、新しいルールを作っていくという流れをどこかに作っていかないといけないかなと思っています。

−−私が住んでいる街も再開発によって高層マンションと商業施設が出来ましたが、実際にやっているのは大手のデベロッパーではなく、元々の住んでいる地権者や町内会とかが主導権握ってやっています。
K:それは素晴らしいです。おそらく昔の商店街とは形は近代的になっていると思うのですが、太地のクジラもそうですが、形は古式からノルウェイ式に変わっていったけど、地域の想いが引き継がれているのですよ。今の東京ではそういうのが無視されていますが、そういう地域社会が大切なんですよ。